甘える君は可愛い

年下ワンコとご主人様

 喫茶店の事を知られてしまってから、久世に誘われるようになった。
 その度に断っており、もう一週間近く喫茶店へ行っていない。
「波多さん、喫茶店に行きましょう」
 今日も誘われるが、二人で行く気などない。
「嫌だね。一人で行け」
 久世のわきをすり抜けて食堂へと向かう。
「約束したじゃないですか」
 行きましょうと腕を掴まれ引っ張られるが、すぐに振り払う。
「波多君、飼い主なんだから、ワンコちゃんを散歩に連れて行ってあげなさいよ」
 こんなに甘えてくれているのに、と、肩を叩かれて。
「八潮課長」
 と、久世と同じくらいの背丈である、上司の八潮雄一郎(やしおゆういちろう)を見上げる。
 波多は八潮が上司となる前に、教育係としてお世話になった先輩でもある。昔から面倒見がよくて甘やかしてくれる人で、久世の事もワンコちゃんと呼び、甘やかしている。
「ほら、課長もそうおっしゃっているのだから、散歩に連れて行ってくださいよ」
 そういうと、肩に頭をぐりぐりと押し付けてくる。
 これは久世のスキンシップであり、それに対しての返事は後頭部をひと叩き。
「俺はこんな大きな犬は嫌ですよ」
 と言葉を返し、ニッコリと笑って見せる。
「波多さん、酷い」
「まったくだよねぇ」
 叩かれた所をナデナデとする八潮に、まんざらでもない表情を浮かべていた。
 八潮の事は尊敬しているし、憧れてもいる。特に波多と同期の者は彼が好きで、頭を撫でられた時には舞い上がってしまう程だ。
 なので非常に羨ましくて妬ましい訳だ。
「とにかく、散歩には連れて行きませんから! では、昼飯を食べるんで失礼します」
 八潮に頭を下げ、食堂へと向かって歩き出す。

 ついてきた久世を無視し、日替わりメニューを選び空いている席へと座る。前のスペースには大盛りのカレーとプリンが二個。
「波多さん……」
 様子を窺うような態度に、周りにはまるで波多が彼を叱ったかのように思われるのではないか。
 それはそれでムカつく。
「はぁ」
 イラつく気持ちを押さえようと息を吐き捨て。
 久世が好きなエビフライをカレーの上へのせてやる。
「ありがとうございます!」
 好物だという事を覚えていたから。ただそれだけなのに、嬉しそうに頬を緩ませた。
 そして、それを可愛いと思ってしまった自分に腹が立った。

◇…◆…◇

 小さな頃、親が離婚して母親に引き取られた。新しい父親と、二人の間に生まれた兄弟も出来た。だが、それと同時に自分の居場所がなくなった。
 愛情を知らずに育った久世は、年上の、しかも甘えさせてくれる人が好きだ。
 今の彼女はまるで母親のように、自分を甘やかし、愛してくれる。
 そして。
 波多もまた自分を甘やかせてくれる先輩だった。
 頭を撫でてくれるのも、久世の大好物はわけてくれる。喜ぶ姿を見て微笑む表情も、すご大好きだ。
 なのに突然、人が変わったかのように、
「そろそろ甘やかすのは終わりな」
 そう言われてしまい、仕事に慣れてきただろうと言われて突放された。
 仕事の面でということなら解る。だが、何故、プライベートの面でも突放されたのだろう?
 何か気に障る事をしてしまっただろうか。
 理由を聞いても「何度も言わせるな」と面倒くさそうに言う。
「素の俺はこんなだから。研修の間は優しいふりをしていただけだ」
 と、自分に優しさを期待するなら大間違いだとまで言われた。
 それはすぐに嘘だと思った。優しさを期待するならと、そう口にして目をそらした。
 結局、理由がわからないのなら付きまとう。
 あまりに波多ばかり追い回すから、周りには「ご主人様と犬」のような扱いをされている。

 昨日、食堂で嬉しい出来事があった。波多が自分の好物を覚えていてくれたのだ。
 自分に少しでも興味を持ってくれている。だから好物の事も覚えていてくれたんだと、そう思っている。
 だからお礼にと、喫茶店で珈琲を奢ろうとおもい、嫌だと断る波多を少し強引に店へ連れて行く。
「いらしゃいませ」
「こんにちは。パンはありますか?」
「はい、ありますよ」
「こいつの分だけお願いします。後、珈琲二つ」
「畏まりました」
 ここへ来るのは二度目。一度目はゆっくりと出来なかったので、店の主のをまじまじと見たのは初めてだ。
 波多が口元を緩めながら店の主を見つめるものだから、つい、だ。
 ほんわかとしてしまう気持ちはなんとなくわかる。彼の持つ雰囲気がそうさせているのだろう。だが、久世にとっては面白くない。
 視線を遮るように顔を近づければ、驚いて顔を遠ざける。
「おわっ、なんだよ久世!」
「だって波多さんたら、彼の事ばっかり見てるから」
「はん、当たり前だろう。江藤さんは俺の癒しなんだよ」
 如何にも当然だとばかりに、そう口にする波多に。久世はショックでしょんぼりとしかけた所に、
「ありがとうございます」
 と店の主……、江藤がくすくすと笑っている。
「おわ、声に出ちゃった」
 恥ずかしいと頬を染める波多に、これ以上、このやり取りは見ていたくはなくて。
「波多さんは俺の飼い主なんですから、俺を構って癒されて下さい」
 そう、前のめりになり、ぐりぐりと肩の所に頭を押し付ける。これは久世が波多に対して甘えたいときにする行為だ。そして、いつもと同様、後頭部を叩かれた。
「ううぅ」
「鬱陶しいんだよ、お前は。江藤さん、こいつ用の珈琲はキャンセルで、ドックフードと水にしてください」
「えぇぇ、波多さん~」
 酷いですと半泣きの久世に、江藤がクスクスと笑いながらパンを差し出す。
「今日は苺の蒸しパンだよ」
 ごゆっくりと、江藤はカウンターに戻り久世は頂きますと蒸しパンを手に取る。
 それを半分に割ると中にはミルククリームが入っている。
「波多さん、波多さん、クリームがたっぷり入ってますよ!」
「良かったな」
 適当にあしらわれてしまったが、ほんのりと甘く苺の味と香りがする蒸しパンに甘いミルククリーム。珈琲と良く合う。
 美味しくて口元が綻ぶ。
 そんな姿を波多がじっと見つめていて。ウザいと思われているのか、眉間にシワがよっている。
「そうだ! 波多さん、あーん」
 これを食べたら波多だって笑顔になるに違いない。そう思い、ちぎった蒸しパンを食べさせようと口元へ運ぶ。
 絶対に食べないと顔を背けられ、それでも口を開いてと軽く蒸しパンをあてる。
 ちっと舌打ちをした後、口を開いて指ごと食いつかれた。
「痛てっ」
 慌てて指を引き抜く久世に、してやったりと口角を上げ、
「美味い」
 と呟く。
「ですよね」
 噛まれた指に息を吹きかけつつ、波多の眉間のしわがとれてよかったと思う。
「これはお前のなんだから、後は全部食えよ」
 もうさっきみたいな事はしないからなと釘をさされ、ここでしつこくしたら完璧に怒らせてしまうので頷く。
 すると波多が手を伸ばし、髪をワシワシと乱暴に撫でる。
 嬉しい。でも、これって完全に犬扱いされているんだろうな。
 それでも良いと思っていたはずなのに、たまに胸がちくっと痛む時がある。
 そして無性に波多さんを舐めまわしたいと思ってしまうのだ。
 ご主人様にじゃれる犬。
 これではますます犬のようだと思いつつ、残り少なくなった蒸しパンを口の中へ放った。