新たな婚約者候補(ヴェルネル)
アレッタから言われた日数で仕上げるのには時間に余裕がない。削れる時間は睡眠だけ。いつも五時間は眠れるのに二時間から三時間にして刺繍をした。
刺繍をするときはそれ以外の仕事を頼まれないので助かるが。
もっと簡単な図案にすれば余裕があるのだが、どうしても複雑なものになってしまい自分自身を苦しめた。
だが、そのかいもあってシャツは満足いく出来となった。
アレッタが婚約者として選ばれた。
青銀色で刺繍をしたシャツは高い評価を得たらしく、自分が繍ったかのように大きな声で自慢をしていた。
タズリー伯爵家の当主で父親のデニスは王族と結びつきができることを喜んでいる。だがそれからというもの王子殿下の婚約者なのだと偉ぶるようになった。
レナーテはそれがおもしろくないようでヴェルネルに八つ当たりをしてくる。
しかし今日はどこかご機嫌で何かいいことがあったのかもしれない。なにもされないことにこしたことはない。
このまま期限が良い日が続けばいい。そう思っていたら珍しいことがおきた。
「図案」
「お友達の一人が持っていたもので、とても古いものだそうよ。これを繍いなさい」
なんて素晴らしい図案だろうか。震える手でそれを撫でる。
「必要な糸を侍女に言いなさい。どんなに高価でも構わない。用意させるから」
しかも糸まで用意してくれるとは。こんなこと今まで無かったから嬉しさに口元が緩んだ。
「はい」
用事が済んだレナーテは部屋から出ていきヴェルネルはさっそく配色を決めることにした。
「どんな高価でも構わないなんて。それならパールの糸を使いたいな」
パールの糸は光沢があり、パステルカラーのような色をしている。ハッキリとした色よりも淡い感じの方が合いそうだし、真っ白な生地にレースをつけて刺繍をしたらよさそうだ。
侍女が食事を運んできたときに用意してほしいものをメモを渡す。
それからすぐに全ての材料がそろい、早速繍いはじめた。
さすがに複雑ゆえに一度練習をした。少しゆがんでしまって失敗したのでもう一度。
それを何度か繰り返すとやっと繍えるようになった。
「よし、それじゃ本番いってみようか」
布と糸を見てむふっと声が盛れる。触り心地の良い生地とパールの糸。
何度か眺めて口元を緩ませる。
「はぁ、キレイな糸だなぁ」
何度も糸を眺めてはため息。だが仕上がりを見るほうがもっと良いだろうと繍いはじめることにした。
刺繍をする時間は現実を忘れられる。とても楽しくて幸せで、母がとなりで一緒に刺繍をしている頃を思い出させてくれる。
刺繍が進むにつれて途中経過を眺めるのも楽しい。
なんどか手を止めながら繍うこと数日。やっと終わりが見えてきた。
何度か侍女が進行状況を確認しに来たが急かされることはなかった。それだけでありがたいと思ってしまう。普段であれば罵倒されるか食事抜きにさせられていたところだろう。
そして……ついに完成した。それは頭の中で思い浮かべたよりも素晴らしいできとなった。
完成したものを侍女に渡し、それから数日後。
アレッタが怒りをあらわに部屋にやってきておまえのせいだと扇で頬を打たれた。
いったいどういうことか解らぬまま痛みに耐える。
そして机に置かれている箱を手にしたのだ。それは母親が誕生日にくれたキレイなお菓子の箱。その中に入っている刺繍道具が入っていた。
今まで何が気に入らないことがあっても刺繍道具にだけは手を出さないでいた。ダメになってしまったら困るからだ。
それなのに箱をつぶされて針を踏んで折り曲げる。残ったパールの糸は侍女に奪われた。
殴られるだけならよかった。痛いのを我慢すればいい。しかし刺繍は取り上げないでほしい。母との思い出でもあるのだから。
「お願いします。刺繍を取り上げないでください」
「うるさいっ! お前のせいで婚約者から候補に落とされただけでなくレナーテまで候補になるなんて」
まさかそんなことになっていたとは。しかもレナーテが婚約者候補に選ばれるとなるとは。あの刺繍が関係しているのあろうか。
「申し訳ありません」
「謝ってすむ問題じゃないわっ!」
怒りが収まらないアレッタはもう一度扇で頬を打つ。
その痛みに耐えながら嵐が止むのを待っていると、
「お姉様、弱い者いじめなんて情けないですわよ」
ドアの近く、その声にアレッタとヴェルネルが顔を向けるとレナーテがたっている。
「レナーテ」
アレッタが怒りのこもった声で彼女の名を呼ぶ。姉妹はとても仲が悪いく、使用人同士も牽制しあっている。
噂話を聞きたいわけではないが廊下で話しているのが聞こえてくるのだ。
「私、お友達が図案をお譲り頂きましたの。それをヴェルネルに繍わせたところ大変すばらしい出来栄えで。私が使うより気高く美しい女性の方がお似合いになるのではと思いまして。そこに浮かんだのが王妃殿下だったのですわ」
目を細めてにやりと笑う。その表情にアレッタの怒りが爆発した。
「お前」
ミシミシと扇が音を立てる。今にも折れてしまうのではないだろうか。
「あら、こわ~い。王子殿下が見たら即候補から外されてしまいますわよ」
「絶対に許さないわよ」
「うっ」
そういうとヴェルネルの足の甲をヒールで踏みつけて部屋を出て行った。
仲が悪くとも手を出すことはない。ヴェルネルが八つ当たりをされることとなる。
理不尽だがこの家ではそれが当たり前なのだ。
「今回はよくやったわ。そのダメになった刺繍道具は私が買い与えましょう」
痛む足をおさえて耐えていたがレナーテの言葉に痛みが少しだけ和らいだ。
「ありがとうございます!」
「せいぜい私のためにこれからも働きなさい」
「はい」
レナーテが立ち去るとヴェルネルは折れた針とつぶれた箱を拾い机に置いた。
「ダメになっちゃった」
大切な思い出があるから捨てずに机の引き出しにしまう。
そこには前に折れてしまった針がしまってある。
「母さん、刺繍ができなくなると絶望的な気持ちになったけど、姉さんが新しいのを買ってくれるって。また一緒に刺繍ができるね」
心の中ではいつも一緒に母と刺繍をしている。絶望でしかないこの家の中で一番幸せで楽しい時間だ。